創業物語
この言葉は、私たちさくらスタッフが毎日唱えている企業理念です。
こんにちは、さくらグループ2代目、「(株)さくら」代表、吉村健二と申します。
私の父(現会長)がここ交野で商売を初めて50年。まだ私が生まれる前のことでした。
今でも当時お世話になったお客様からは「けんちゃん」と呼ばれ、弊社が本格的に建築リフォーム業をさせて頂いてから19年の年月が経ちました。
嬉しいこと、
「地域でがんばってください、応援していますよ」
「さくらさんのサポートなしではうちは生活できないよ」と言われる存在となり、
責任あるありがたい立場になったのだと、感謝しております。ありがとうございます。
さて今回は、私たちが地域の中でおうち丸ごとリフォーム業に対してどのような姿勢で取り組んでいるか。
私の人生感を交えながら、お話させていただければと思いました。
そして、読み終えたときに、少しでも地元で活動する私たちの姿勢を身近に感じていただけたら幸いと思います。
おうちに困り、誰かを頼って探し、ここに到着されたのも「ご縁」。今後ご来店等頂き、お会いすることができれば、スタッフ共々嬉しい限りでございます。
それでは、しばしの間お付き合いください。
【第一章】商売人の子に生まれて
昭和51年2月「吉村健二」誕生。
私は交野の藤が尾で生まれました。
この時すでに父は独立し、当時6坪ほどの店舗で地元商店街の家電販売店を営み、「寒波吹き込む風をよけるシャッターすら当時のお店にはなかった」と、今でも母は語ってくれます。
生まれてすぐ、私の面倒をみていたのはもちろん母でした。
店舗にて営業を行い、受付・経理の仕事を行いながら、私に乳を飲ませてくれたようです。
お店の中で育った私の周りには、いつも多くの従業員スタッフ(若いお兄ちゃん)達がいました。私が人なつっこくなった性格も当時の環境のお陰かもしれません。
中学生になると、電器店の仕事を手伝うことが増えました。
父と一緒にテレビを運んだり、冷蔵庫を運んだりと。
初めての経験で、とても楽しかったことが記憶に残っていますが、逆に衝撃的なこともありました。
自宅では優しかった父が、仕事では別人のように怖かったことです。
高校生になると、長男という立場と、周りの親戚から「将来はお父さんの跡を継いで・・・」
そんな声を度々耳にするようになり、自分の将来を少し考え始めるようになりました。
しかし、父から「跡を継ぐか?」という言葉は一言も聞いたことはなく、ただ、「お客様と家族のように仲がいいな」といった印象だけでした。
そうして時は過ぎ、大学時代を経て、私はついに社会というステージへ向かうために、就職活動という時期に入ることになりました。
【第二章】仕事というものを考えた20代
大学3年生21歳の春、「大きな街づくりをしたい!」と夢を抱いて、就職活動にて
「家族が集まれる、街開発をしたい!」
希望を語り、東京の某大手不動産会社に勤めました。
この時は一抹の不安もなく、ただ大きな期待だけを胸に、大阪を飛び立った記憶があります。
しかしこのときも両親は、したいことに専念して、大阪を飛び出してしまった若者に、一言も家業のことを持ちかけることはありませんでした。
今思うと、本当に素晴らしい両親の元に育てられたと感謝しています。
東京での初任業務は、住宅ではなくオフィス(事務所)の資産運営担当でした。
当時は不況のまっただ中、会社は物件清算や、譲渡売却、リスク分散の証券化、そしてバブルの後処理、オーナー様への交渉ばかりで、正直いい話はあまりありませんでした。
多くの先輩からは、
「また、いい時代がやってくるやろうけど、いまは最悪だな」
と言い聞かされていましたが、直感的に私はそう思えませんでした。
「いい時代って来るんだろうか・・・今までが本当にいい時代?」
何となく、日本の経済に疑問を持ち始めた第一歩でありました。
時が過ぎ、後輩も入り、私も立場上、若手第一線までになりました。
この頃から私の付き合いの中で、異業種の人々との交流会が行われることが頻繁になりました。
当時流行となっていた、婚礼や、ホテル、飲食含めてのサービス業の人々との出会い。
それは私との、生きることや仕事への情熱の違いを見事に露呈させてくれました。
「お客様のために何ができるか」
いつも彼らからは、そんなことをひたすら考えて働いていました。
「今、私がやっている『まちづくり』は、お客様の顔が見えているのだろうか」
東京で精一杯働く、仲間たちのサービスは一流でした。
そして、彼らが勤める会社も、不況に関わらず、世間に認められた会社でした。
【第三章】 葛藤と悩み
不況の中、前線で活躍する、社外の仲間との出会いは、私の中に大きな煩悶を起こさせ、心に残り続けました。
しかし、「決断」は急いではいけない。
目の前の仕事、求められたことをひたすらに行おう。
そこに見えるものがかならずあるはず。
そう自分に言い聞かせ、3年間働き続けた結果、気がつくと、結婚を前提にしていた、目の前の女性が私の前から去っていきました。
当時、結婚を前提に5年間付き合っていた彼女との、遠距離恋愛を甘く見過ぎていたのかもしれません。
東京での生活・ライフワークが安定し、結婚、新居と、生涯生活してもいいと思っていた矢先でしたので、がけから突き落とされる思いでした。
自分は何を大切にしているのか、
どこで生活をして、誰と過ごすのか、
そして、何を生計として生きていくのか。
「生涯、何をなし得たいのか」
そんな葛藤と悩みが始まったのが2001年、年明けのことでした。
【第四章】 決断の契り
その後、東京でいろんなベンチャー企業で働く人との出会い、将来を語り合い、様々な形で「夢を提供する商売」を見ることによって、自分のイメージが少しずつ形づいてきました。
次第に大きくなる「地域密着商売」の存在。
スタッフと共に夢を共有する生き方、本当の「会社経営」とは・・・。
今まで身近にありすぎて忘れていた、
「人の縁」「ふるさと交野」といった、
キーワードが私の心の中で確固たるものになっていきました。
そして、背中を見続けてきた「父の生き様」が急に大きくなり始めました。
決断の時でした。
その年の年末、世話になった10歳以上の先輩方一人一人に将来の想いを語り、退職の意向を伝えました。
中には「俺が社長になるから、ついてきてもらいたかった」
とまで言って下さる先輩もいましたが、やはり私の想い気持ちのほうが熱く、先輩方々からは、応援メッセージを頂くこととなりました。
最も世話になった先輩との最期の酒の席にて、杯を交わしました。
「俺は東京でここを最高の会社にする!吉村は、関西で中途半端な会社をつくるなよ!そうじゃないと認めないぞ」
気がつくと男二人泣き語り、契り(ちぎり)を交わしておりました。
それは、大阪へ帰省する前日の約束でした。
【第五章】 人をもっと感じるために
退職後、私は実家に戻るまで、やりたいことを成し遂げる計画を立てました。
まず、以前から夢であった「海外一人旅」に出かけました。期間は1年間でした。
反対もあり、悩みもありましたが、
「20代のうちに、できることをする!」
「いろんな民族、宗教、土地をもった人々に出会いたい!」そんな強い気持ちを胸に。
以前大阪から東京へ飛び出した時のように、今度は日本から世界へ飛び出しました。
旅では10kgのリュックを毎日背負い、100万円の資金を持ち、連絡が一切取れない、アジア、アフリカ、中近東、ヨーロッパと陸路で45か国歩き回りました。
旅先で、留置所に入れられたり、野宿したり、強盗に襲われたり、帰ろうと思った時は幾度もありましたが、無事1年後帰国しました。
今更ながら、よく生きて帰ってこれたと思います。
旅先からは4つのことを持ち帰ってきました。
一つ目は「一国一家」、訪れた国の住いをみてきた。
「生活(家の中)を知る」
>この地球の中で生きていく上でとても大切なこと。
「人間を知る」ということ。
また、外国に行ってわかる、
「日本という国を知る」
そして、世界で生き抜く人を通じて感じた、経営の中にも生かせる、
「今の時代を生き抜くこと」でした。
さて、社会人になってから7年の月日、私は大きく遠回りしてきましたが、東京という大都会で情熱を学び、世界各国で多くの価値観と肌でふれ合い、私は故郷「交野」に戻ってまいりました。
当時、作成したホームページがあります。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~eye/
(また縁あり、大手出版会社から、自伝の書籍も出させて頂きました)
【第六章】 住宅リフォーム業という仕事に巡り会えて
帰国後は電器屋の家業に就きました。
出勤の初日の午前中このことは今でも覚えております。
突然訪問したお客様のお宅でのこと。
「○○さ~ん、居てる?!」
※玄関先でインターホンも押さず、もちろんアポもなしでした。
「あー吉村さん、まーあがってあがって!」
「○○さん、うちの息子帰ってきてん」
「あー、東京にいて、世界旅行にでかけた、言うてはった息子さん?」
「おかえり、まーお茶飲んでいきよ。」
それから数時間世間話をさせて頂いただけで、帰社しました。
この時の出来事は私にとってたいへん新鮮で、旅に出て、どの国を訪れた時よりもカルチャーショックでした。
なぜ父は、約束もなしで、他人のお宅に上がれるのか?
なぜ父は、インターホンも押さず、玄関のドアを開けられるのか?
そしてお客様は、あったことのない私のことを、なぜ知っているのか?
疑問が溢れる状態になりましたが、帰社してからすぐに私の中で答えが見つかりました。
「これが、『地域密着商売』か・・・面白いかも・・・」
交野に戻り、この地で大きな旗をあげようと改めて決意しました。
それから半年、「おうちに関わるお困りごとの相談」を掲げ、新たに『住宅リフォーム業』を専業として、地域貢献を目指していきたいと志した私は、リフォーム事業部設立期間を経て、4年目の春に法人、(株)さくらリフォーム[旧セイビリフォーム]を設立いたしました。
この仕事に就いてからは、寝る時間を削り、サラリーマン時代の倍以上の時間を働きました。
何も知らない私は、現場で大工さんに叱られ、何度も教えを請いました。
目の前にある現場は10万円のトイレリフォーム工事。
東京にいるときは、2億円の予算の仕事をしていたのに、当時味わえなかったリアリティーがなぜかそこにはありました。
設計を失敗して、職人さんに直してもらうのに、何度も頭を下げお願いし、現場の基本を学びました。
また、営業を終えてからは、少人数でも未来の会社の体制を作るために、業務の効率化、職場の安全性、職場環境の美化のために、5S(整理、整頓、清潔、清掃、躾)を徹底し、深夜まで片付けを一人で行っておりました。
大学の専攻が建築でない私は弱みをカバーするために、信頼できる職人さんや専門のプロを集める努力をしました。
腕利きの大工さん、左官屋さん、塗装屋さん。そして、現場を仕切る現場監督、設計士、建築士、コーディネーター。
今日のメンバーをそろえるまで、500人以上の選考と、200人以上の面接を行い、「お客様に寄り添える」スタッフを集めることができました。
「揺るがない地域密着の経営」を目指し、読書だけでなく、経営セミナー、勉強会、労務・税務・会計、人事評価制度を学び、地域一番店になるには、「売上だけでなく、組織が強くならないと、地域に貢献できないと成り立たない」理屈を教わりました。
そして3年後、冒頭の企業理念を確立しました。
私が掲げた理念は以下の通りです。
【私たちの存在意義】企業理念
私たちは一生涯のお付き合いを通して、家族が安心できる会社を目指しております。
私たちが事業を行う住宅リフォーム、家電の購入、また土地の売買も、お客様の人生の節目の中での、ご家族の大切な変化の節目です。そこには、常にご家族での話し合いがあり、生活の改善だけでなく、家族みんなの「希望」や「夢」があります。
毎日疲れているお父さんのためにユニットバスに変えてあげよう!
毎日、家事が大変なお母さんのために、片付けやすいシステムキッチンに!
オリンピックはもうすぐだね!家族みんなで大きなテレビで見よう!
そんな会話を交え、どこに頼もうか不安な中、星田のお店の門をたたき、「ちゃんと、工事して頂けるだろうか・・・」そんな不安と緊張を抱いて、ご相談に参られます。
お母さんだけでなく、お父さんのわがままだけでもなく、大切なお金を費やして、家族みんなで、「ハッピーになりたい!」と思って頂き、私たちが、その想いに応えさせて頂きます。
【目指す役割・使命】ミッション
人生の中には、結婚、出産、卒業、退職、同居、新居、病、介護と、さまざまな転機があります。
そして、それぞれ家族皆の悩みに寄り添うことで、ご夫婦の夢、子供たちの夢が叶い、家族全員の笑顔があふれる「世の中」、社会を創ることが私の願いです。
私たちが最も「寄り添う」ことを大切にしているのは、リフォームを行う主役が私たちではなく、お客様自身だからです。
私たちはお客様の不安を取り除き、希望を叶えるために側で見守る存在。
自分たちがやりたいリフォームを、最後まで安心して完成できるよう、寄り添います。
【将来の理想の姿】ビジョン
受付事務、営業、設計コーディネーター、アフターフォロースタッフ、また、現場の品質を握る、工務、職人さんまで、全てのさくらスタッフがご相談を通じて、「地域で一番頼れる会社だね!」とひとりでも多くの市民に言われることを目指しています。
- おうちのことで困ったとき、友達に相談したら「さくらさんがいいよ」と言ってもらえる状態
- おうちのことで困った!「さくらさんに頼めば何とかなる!」と思い出してもらえる状態
- 家族3世代のお付き合いできる状態(創業当時は祖父母とのお付き合い、今はご夫婦とのお付き合い、将来は子供さんたちとのお付き合い)
- 今、お付き合いしているお客様のご子息が「さくらに入社したい!」と思って頂ける状態
話はそれますが、私がまだ訪れたことのない、そして是非訪れてみたい国のひとつに「ブータン王国」という国があります。
皆さんご存じかもしれませんが、国民総幸福感(GNH)といった指標を国独自の政策で世界に発表した有名な王国です。
>日本や先進国のように、物質的豊かさ、GNP(国民総生産)でなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたもので、国民に「あなたは幸せですか?」と尋ね、9割の国民が「はい」と答えたことも有名です。
私は総理大臣でもなく、スーパースターでもありませんが、地域のお客様、スタッフ、協力業者様、またその家族全員の幸せを、人生をかけて楽しい集団を目指すのも幸せであり、この地『交野市』で生まれた私の使命と思っております。
私、齢若干47歳でございますが、優秀なスタッフに囲まれ、スタッフ皆がいきいきと地域に元気分け与えられる存在として、まとめさせて頂く立場と責任も大きくなりました。
自らに奢ることなく、よりよい未来を地域で語れるよう、まだまだ、やるべきことはたくさんあります。
今後共よろしくお願いいたします。